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Author:なめこマッハ
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当ブログの『テラーオブザテラー』ですが、12~13年ごろ前にFM福井にて23:50分くらいに放送されていた5分間のラジオドラマから取っています。
(うろ覚えなのでタイトルが正しいかわかりませんが…)

自分が録っていたテープも紛失してしまったし、ネット上でもまったく情報を見ないのでほんとにあったかどうかもわからないのですが、もし『私知ってる!』という方がいれば連絡ください。

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■引用:戦国時代(仮)@2ch掲示板

1 名前: 笠松但馬守 投稿日: 02/03/05 09:57
全国の武将の逸話が知りたい!!なんか教えてくれ。
例・信玄が山本勘助を登用するときのエピソード

山本勘助が信玄と始めて面会したとき、信玄が館助の余りの不細工な顔・体を見て100貫で召抱えるつもりが300貫に加増。
家臣が理由を聞くと「あんな不細工なのに諸国に知れ渡る武辺者だから本当の実力はもっとあるに違いない。300貫でもまだ安い。」みたいな。

聞いたことも無い、知らなかった逸話を待ってます。

2 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 10:08
立花道雪が島津・竜造寺連合軍と対峙中に死んでしまい、撤退することになったとき、島津・竜造寺連合軍が追撃などをせず哀悼の意を表す法螺貝や念仏・合掌をして見送ったというやつあるぞ。

7 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 11:22
蒲生氏郷は、
「太閤殿下が死んだら、天下は俺と前田利家殿が治める。
関白殿(豊臣秀次)のような愚人に従うものはいないし、家康のような器量の無い奴が天下を治めたら世の中が狂う」とか、大言を吐いたせいで、いろんな者を敵に回して暗殺された。

10 名前: 水野勝成は 投稿日: 02/03/05 16:38
関が原前夜、浪人にもかかわらず勝手に家康の京屋敷を警護に加わっていた。
衛兵が姓名を問いただしても、ついに名乗らないままだったという。
あからさまに怪しいな…よく斬られなかったもんだ。
そんなライノベ板の住人みたいなことをして。

11 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 17:03
水野は母親の実家です。
家康は承知していた。
竹千代(家康)は駿河の城で各大名、今川家の重臣の前で小便を披露した。
義元は綺麗好きなので皆、竹千代の首が飛ぶと思った瞬間。
見事なふぐりである、ワッハッハと声をかけた人が?
誰あろう武田信虎であった。
義元は竹千代そなたそう事をしても良いと誰かに教わったのか?
そうじゃぁーお館様、尾張にいる時信長どのが出るものこばまず所かまわずと言っておったのです。
いつも二人で飛ばしっこしていたのです。
婿殿面白いではないか?尾張の大うつけ信長尾張も終わりでわぁーワッハッハー義元も大笑いシーンと静まっていた一同大笑いになって新年の祝儀は終わったそうだ。
この10年後に義元今川家滅亡をむかえる。おおうつけとバカにした織田信長によって。

12 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 17:23
前田慶次郎利太は一時期前田利家の影武者を務めていた。
ある合戦で事もあろうか、
「我こそは前田利家が影武者也」と喚き散らし、利家始め近習たちは冷や汗をかいたそうだ。

14 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 17:30
池田輝政は、督姫(家康二女・元北条氏直室)と結婚するときに、
「父を討ちとった人と会いたい」と家康に頼み、その人の禄高をきき、
「もっと加増してあげてください」と家康に頼んだ。

15 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/05 22:30
>>14
輝政が家康に小牧・長久手で父親を討ち取った奴の禄がどのくらい加増されたのか聞いたところ、僅かに加増されただけだったので輝政は「父の首は価値そんなものだったのか」と言い涙したところ家康はそいつの禄を増やしたって話だよね。
まぁ、嫌な奴っていえば嫌な奴だな。

16 名前: 竹中半兵衛逸話その1 投稿日: 02/03/05 18:29
竹中半兵衛と黒田官兵衛の酒飲んでいるときの話。
官兵衛が抜け目無く秀吉に書かせて置いた誓文を取り出して
「近いうちに知行を増やすといって一生懸命働いてもいつも増やしてくれん」と愚痴ってると、半兵衛がその誓文を火の中に入れて燃やしてしまった。
当然、きれそうになった官兵衛に無言で酒をつきながら半兵衛が
「誓文など持っていると不平不満の種になり、勤めに陰日向をつくるようになり、上を脅すようにもなり、結局、自分の身にもならないぞ。」
官兵衛は、はっと我に帰り
「それがしの不明であった」と頭を下げたとさ。
現代に通ずるものがあるぞ。

17 名前: 山中鹿之介 投稿日: 02/03/05 19:19
「われに七難八苦を~」は戦前教科書の嘘。
本当は「今日より三十日の内に武勇の誉れを取り候ように」
(一ヶ月以内に戦さになって暴れられたらええなっ)と誓ったそうな。

35 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 02:12
丹羽長秀はブラックジャックばりに自分のガンを摘出したが失敗→あぼーん

36 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 02:20
前田綱紀の娘は浅野光晟の息子に嫁いだが、浅野光晟のあまりの馬鹿さ加減にショックをうけて前田綱紀の娘は切腹した。

37 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 02:34
加藤清正は
「自分は大坂の陣のまえに早く死にたい。自分が死ねば息子は豊臣家に関する恩顧はないから徳川家に忠義ができる」
といった。

39 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 02:42
細川忠興は、黒田長政と加藤清正と仲が悪く、「黒田、加藤に対してのみは礼儀を尽くす必要はない」と家臣に命じていた。

40 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 02:45
矢部虎之助

紀州徳川家に仕える剛の者。
大阪の陣において長さ二間の指物、三尺余の太刀という出で立ちで従軍、大いに衆目を引くが、余りの重さに馬が進まずもたついている内に何ら功を立てられずに合戦が終ってしまう。
戦の後、家中にて虎之助を嘲る声が高まり、恥じ入って食を断ち、二十日の後に死んでいたという。

42 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 11:34
前田利家は若年の頃カブキ者であった。
腰には自分の背丈よりも長い物を差し、先端に車輪を付けていたのだ。
ある日も、コロコロと刀の車輪を転がしながら歩いていると車輪が馬糞の中に埋まる惨事に見舞われた。
利家は「もはやこれまでよ」と観念し、更生したと云れている。

43 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 11:43
1979年、細川忠興と明智光秀の娘(後のガラシア)婚姻。
このとき媒酌人を務めた織田信長、
「とっても愛らしい夫婦が誕生した」
と誰よりも一番大喜びしたそうである。
同年に築山御前と松平信康を切腹させているが、織田家家中もこの時の信長公はまるで別人のように優しく朗らかであったという。

49 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/06 14:48
有名な話としては、羽柴秀吉が明智光秀を討つために姫路城を出ようとした時に、
同行していた占い師が
「今日は悪日でございます。今日出発したら二度と城には戻れませぬ。」
と言ったところ、秀吉は
「城に戻れぬとは何という吉日であろうか、そうであろう、光秀めを討ち滅ぼせばこんな所には戻って来ぬからの。」
と言いその占い師を笑い飛ばしたという。

63 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/07 18:28
信長が浅井と組んで六角氏を攻めようと、近江で浅井長政と会った。岐阜に戻る途中、美濃と近江の国境付近の寺で宿泊することになったのだが、それを聞いた浅井方の家臣、遠藤直経は長政に「信長は大変危険な人物です、信長を討った後、長政様は近江を平定し、上洛して天下に号令するのです!」と進言したが結局聞き入れられなかった。
その後の姉川の合戦でも遠藤は味方の首を持って織田の陣中深く攻め入り信長を討とうしたが結局寸前で正体がばれて討たれてしまいました。

69 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/08 22:30
加賀の一向一揆に追いつめられた富樫政親は、居城の高尾城の奥にある山から麓の池に飛び降りてあぼーん。
夜な夜なその池からは富樫政親の鞍が浮き上がるという怪談からその山の名前は「倉ヶ嶽」と名づけられた。

71 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/09 00:52
武将ネタでなく戦場ネタ。
静岡県浜松市布橋は三方ヶ原で敗れた徳川が谷間に白い布を張り、橋にみせかけ、追撃してきた武田を罠にはめたことに由来する地名。
この辺ではお盆の季節にこの罠にはまった武田方を弔うために念仏祭りが行なわれているそうだ。

79 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/03/25 17:50
毛利輝元も足利義輝から一字拝領にて命名。
最初は“義”を承ったのだが、それでは桶狭間で討死した今川義元公と同じ名で縁起が悪い為、“輝”の字を戴いた。

82 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/04/12 04:10
片倉重綱(のち重長)は10代の時に英才教育する為大坂で育てられたが、えらい美少年だった為に小早川秀秋にストーキングされたらしい。

89 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/04/21 00:28
前田薩摩守(出羽国大曲城主)

天正年間、出羽角館城主戸沢氏の名代として織田信長に謁見した。
その際、戸沢氏からの土産である鷹を自ら贈ったものと偽った。

謁見後、居城(大曲城)に戻ったところ、居城は謁見中に仇敵の由利十二頭勢に攻撃されて落城。
帰るべき城を失ってしまった(w

後に、前田家の家督が途絶えたとき、戸沢家は先の虚偽報告(wを理由に前田家の家督相続を拒否した。

93 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 19:52
・塙団右衛門直之
1)関ヶ原で加藤嘉明軍の鉄砲足軽頭として出陣したが、戦が始まると刀を抜いて一人敵陣に突撃、鉄砲隊をだまらせてしまい、自軍を唖然とさせた。そして加藤家を出奔。
2)大阪冬の陣で夜襲を行い、見事成功させたが、帰り際にあらかじめ用意しておいた自分の名前を書いた札をばらまいていった。
3)大阪夏の陣で自分が先鋒と信じて出撃したが、岡部則綱の部隊が先行していると知り、またも一人突っ走って岡部則綱と二人で先駆け争いをしてしまい、気がつけば一人で突撃、そして戦死

・山中鹿之介
1)毛利にとらわれのみになってたときに、股をさして赤痢になったと偽り、便所に通い詰め、見張りが油断した隙に便所の穴から肥溜め経由で見事脱出。

・加藤清正
1)潔癖性だった清正は痔を患っていて、便所が長かったが、便の跳ね返りがいやで専用の下駄を用意させた。その高さ30cmとか。

94 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 19:53
・伊達政宗
1)大阪夏の陣で後藤又兵衛隊と戦っていたが、そこに横から味方の神保相茂隊がでてきて後藤隊を破る。
キレた政宗は神保隊も後藤隊も見境無しに鉄砲を撃ちまくる。
・上杉景勝
1)家臣に、敵より畏れられた景勝。あるとき富士川を船にのって渡っていたとき、人が乗り過ぎていて船が沈みそうになった。景勝が無言で杖を振り上げると、それを見た家臣達は一斉に川に飛び込んだ。

95 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 19:59
>>93
前田利常
利常がいつも鼻毛をのばしていて、江戸城内を鼻の穴から3センチほどのばした鼻毛をそよがせながら歩いた。
その鼻毛を家臣が見かねて、そっと手鏡を出して利常にみせたところ、利常は「この鼻毛が加賀・能登・越中の三国を守っているのじゃ。お前らが安楽に暮らせるのも、このお陰じゃぞ」といった。
実は、徳川家から疑われないよう、鼻毛を伸ばすことを怠らず、うつけをよそおっていたのだった。

96 名前: 有吉立行 投稿日: 02/05/13 20:12
細川家家臣で忠興が幼少の頃の遊び相手だった。若い頃はボケーっとして他の家臣からも
軽んじられていた。
忠興と川を渡るときに、忠興を肩に担いで渡ることになった。担いで川にはいっては見たものの、予想以上に深く、立行は頭まで沈んでしまった。忠興が方の上から声をかけても返事はなく、それでも川を渡っていく。

渡り終えて忠興をおろすと、立行はばったりと倒れてしまった。おどろいた忠興がさわいで、集まってきた家臣がよってかかって立行の腹を踏みつけると、水を吐き出して気がついた。このとき踏みつけられている立行をみて忠興は「こやつタダモノではない」と思ったという。

後に関ヶ原の戦いにおいて立行は松井康之とともに豊後杵築城の留守を預かり、黒田如水と共同して大友義統軍を破っている。

97 名前: 佐々成政 投稿日: 02/05/13 20:55
天正十二年(一五八四)冬、佐々成政はひそかに富山城を出て立山のざらざら越えを決行し、浜松城に徳川家康をたずね、秀吉打倒の強談判をした。
このとき、近習の一人が病気と称して富山城に残った。
この間、愛妾・早百合がその近習の侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した成政は早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、神通川べりの榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処した。近習は言うまでもなく、早百合の一族も皆殺しにされたという。
早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えた。
やがて立山に黒ユリが咲き、成政はこの珍花を秀吉の正室・おね(北政所)に献上したが、この花がもとでおねと側室・淀様との間がこじれ、やがて成政は切腹させられたという。

98 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 21:36
亀井茲矩
尼子主家滅亡後は豊臣秀吉の家臣となった。
姫路城の論功行賞で秀吉が因幡半国を与えようとした際に、茲矩はあえて琉球を望み、渡海して攻め取ると答えた。
秀吉は感心して腰に付けていた団扇(うちわ)の表に亀井琉球守殿、裏に秀吉と書いて判を押して与えたという。
その後、茲矩は朱印船貿易を行ったり、海外雄飛の夢から長崎で西洋型帆船の建造を試みている。
茲矩にふさわしい官職といえる。

99 名前: 投稿日: 02/05/13 22:04
毛利元就
三本の矢の話で有名だが、実は息子は9人もいる。(6人は側室の子だけど)

100 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 22:37
【毛利勝永】
秀吉子飼いの武将毛利勝信(吉成)の子。関ヶ原で西軍についたため後に領地没収。大阪の陣のころは、土佐山内家に預かりの身になっていた。大阪の陣のとき、大阪に赴いた山内忠義と衆道(男色、いわゆるホモ)の関係なので初陣の忠義を助けたいと申し出てゆるされ、大阪に向かう途中、監視役を斬って大阪城にはいった。

夏の陣では、真田幸村、後藤又兵衛とともに戦う。
最終決戦となる天王寺・岡山での戦いでは、すでに勝負は見えていた。
死を覚悟した毛利隊は疾風の如き活躍で敵の大将本多忠朝を討ち取る。この時、息子の勝家が首を取って勝永に見せるが、「これが最後の戦いだ。敵の首など取ってもしょうがない。捨てておけ」と言ったという。しかし、その後、踵を返して再び戦う息子を見て、「あたら惜しい若者を」と泣いている。
本多隊を破った毛利隊は、家康の本陣に突入するが家康本人は真田幸村に追いたてられ逃げただった。
その後撤退し、大阪落城に際し、秀頼の切腹の介錯をし、そのあと自害したと伝えられる。

101 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/13 23:17
【木村重成】
豊臣秀吉の息子、秀頼の乳兄弟。大阪の陣の頃は豊臣家の若き重臣になっていた。
初陣となる大阪冬の陣今福の戦いで、敵佐竹軍を窮地に追い込み、佐竹軍歴戦の勇者 渋江政光を倒すなどの戦功を挙げたため、秀頼が感状と脇差しを与えようとしたが、
「自分一人だけの戦功でないので受け取れない。それに感状は他家に使えるときには役に立つが、自分は豊臣家以外に奉公する気はないので無用です。」
といって受け取らなかった。

夏の陣では、家康本隊攻撃のために出撃するが、このころ食事を制限していた。妻が心配して聞くと、
「昔、瓜割四郎というものが首をはねられたとき、傷口から食べたものがでてきて恥をさらしたという。自分が討ち死にしたとき、傷口から食べたものが出ると見苦しいので食を慎んでいるのだ。」
と語ったという。

若江の戦いでは、長宗我部盛親とともに藤堂高虎を破るが、そのあと「兵は疲れているので一度兵を引いては」という家臣に「まだ敵将軍の首を取っていない。局地的な勝利など意味がない」と聞き入れない。そして現れた井伊直孝軍との戦闘になり、兵数に劣る木村隊は敗退。重成も討ち死にする。
重成は死を覚悟しており、頭髪に香をたきこめていたという。家康が首実検をしたとき、髪にたきこんだ香の薫りが漂ったのに気づき、非常に感心したという。

102 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/14 00:29
【佐久間加右衛門】
賤ヶ岳七本槍の筆頭、福島正則の家臣。
関ヶ原のあと、京都で略奪する輩が出てくるのを気にした家康は、京に至る日ノ岡に伊奈図書昭綱を急行させ、とおる軍団を検問するように命じた。
このとき、福島正則も京都のの守護を命じられていて、正則は京都にいる弟の高晴に使者(佐久間加右衛門)を送った。

加右衛門が日ノ岡の関にくると急いでいる加右衛門と厳密に検問する伊奈図書の家臣との間でごたごたした。結局、佐久間は関の者と口論になり、関吏は佐久間を打ち据えた。微禄といえども主命を帯びた立場上、そこは堪えて任務完了後、主君正則の元へ来て経緯をはなした上、
「自分はコレで切腹しますのでこの仇はなんとしても取っていただくようお願いします」といって切腹した。

使者に与えられた侮辱は主君に対する侮辱と正則は激昂。正則は佐久間の首を伊奈図書のもとに送りとどけ、
「使者の受けた恥辱は主人の受けた恥辱である。失礼ながら貴下のお首をちょうだいする所存」と伝えた。
これをみてビビった伊奈は、井伊直政、本多忠勝に相談し、足軽6人の首を切り正則に陳謝した。それでも正則の怒りは収まらない。「自分の求めるのは第一級の首のみ」といい、
「もしそれがかなわないなら残念ながら家康公への忠勤もできないので清洲城から立ち去るのみ。」
といいきった。ことが大きくなって、家康が、「大事のための小事」といって伊奈図書に切腹を命じ、その首を正則に送った。

110 名前: 武蔵守 投稿日: 02/05/14 04:54
旧伊達政宗領で一揆が起きた際、秀吉は政宗がこの一揆を誘発したのではないかと疑い問いただしましたが(実際、伊達政宗が書いたとされた一揆を起こすことを指示した手紙が発見されました。
もっとも、この手紙は秀吉のでっち上げかもしれません。)、政宗はその手紙を見せてくれと言います。

政宗はその手紙を眺めるなり「この手紙はニセモノです。この手紙の花押をご覧下さい。花押のまん中(正確には少し違うけど)には針で穴が空けられていません。それがしがこれまでお送りした手紙をごらん下さい。どれも皆花押に穴が空けてあるでしょう。」と弁明しました。

111 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/14 16:28
【福島正則】
関ヶ原の戦いのあと、正則麾下の家老格の武将三人がそろって家康に拝謁した。
これを見ていた家康の近習たちは彼らをみてコソコソ笑っていた。なぜなら、彼ら、福島治重は跛(びっこ)、尾関石見守は隻眼(片目)、長尾隼人正は聾(耳が聞こえない)だったからである。
福島正則は身体の障害など、全く気にせず功名をもって家臣をとりたてていた。
家康は謁見のあとに近習に諭している。
「女は容姿を尊ぶものだが、形はどうあれ戦にて功名をあげてこそ男である。
かの三人は世に優れたる剛の者。お前ら十のうち二、三でも彼らみたいになれれば
よいの。」

112 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/14 16:48
【堀秀政】
・戦陣にあって、風雨にみまわれた夜、秀政は部下に警戒を厳重にせよ、と言いつけ、さらにこう続けた。
「こういう晩には盗賊が武具や兵糧を奪いに来るやもしれぬ。だが、盗賊ごときに奪われるのは残念だから、今晩、わしが泥棒に入るからそう思え」

殿様に盗まれては、それこそ大失態と、堀の陣中は異常なほどの厳戒体制を布いたた。おかげで野盗などの被害には遭わずに済んだが、他家の陣ではことごとく被害に遭ったという。

・家中にいつも泣いているような顔つきの男がいた。瞳はいつも涙でうるんでおり、眉もひそめている。他の家臣が秀政に「あのような者がいては当家の恥ですので暇を出させては」と進言したが、秀政は「大名の家中には、いろいろな家臣がおらねばならぬ」ととりあわなかった。
「お前ら泣けといわれてどこでも泣けるか?あの男は法事や葬儀の使者にはうってつけである。」

113 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/14 20:29
【可児才蔵】
・才蔵は何回も主君を変えているが、最後に仕官したのは福島正則である。
一人で髷(まげ)が結べるという一発ネタで採用試験を突破したらしい。

・関ヶ原の戦いでは福島隊の先鋒として戦った。戦後の首実検で、才蔵は17とも20ともいわれる数の首を取ったというが、持参した首の数はそれにとうてい足りてない。
「いちいち首を持ち帰るのも面倒ゆえ、討ち取った首の口や耳に笹の葉をつっこんでおいたわい。」
戦場に落ちていた首や他の武将が持参した首に、たしかに笹がつけられたものがあり、それは17個あった。17個という首級は東軍随一であり、以後、「笹の才蔵」とよばれる。

・才蔵は愛宕権現を信仰し、権現様の縁日である24日に死ぬと常々公言してたらしい。そして本当に6月24日に死んだ。完全武装で床机に腰掛けた格好だったという。

143 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/16 22:09
蒲生氏郷のもとに浪人が仕官したときの話
氏郷の訓示
「我が手勢の中に鯰尾兜の者がいて、合戦では必ず先手を駆け武功著しい。そのほうも遅れを取らぬよう心して励め」

まもなく戦があり、その者も手柄を上げようと張り切っていると・・・はたして鯰尾兜をきらめかせ真っ先に敵陣に突き入る騎馬武者がいた。
遅れを取ってはならじとしゃにむに後に続き、全員が命を捨てて敵陣に切り込んで行った。

鯰尾兜の騎馬武者とは蒲生氏郷本人である

146 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/17 13:01
柳生宗矩が家光の剣術指南役となり日本一の剣名を謳われるようになると兄弟子にあたる丸目蔵人が「石舟斎の子倅が日本一とは片腹痛い。奴が日本一なら俺は何だ」とはるばる江戸まで出て行って試合を申し込んだ。

賢い宗矩は下へも置かずの丁重な待遇で応酬。
蔵人はすっかり丸め込まれ試合を忘れたどころか、宗矩の弟子たちに代稽古まで付けてやり上機嫌で帰って行ったという。

ああ上泉公の愛すべきDQN弟子丸目蔵人

147 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/18 21:21
織田信長が上洛した時、今川氏真が訪ねてきて「あなたに対して、父の敵討ちをしたい」と述べる。
氏真が一兵も連れる事無くそう述べたので信長は不審がるが、「信長と蹴鞠で勝負して勝ち、それを敵討ちとしたい」との事。
ただ信長は蹴鞠が出来なかったし、氏真の申し出を馬鹿馬鹿しく思ったのか氏真を蹴鞠の上手い公卿と対戦させた。
氏真の試合振りを見た信長は、「勝負の急所を心得ているのに、それを合戦に用いぬとは」と嘆いたとされる。

148 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/22 16:47
>>147
なんかいい話なのかアホらしい話なのかわからんな(w

151 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/22 20:22
島津義弘は晩年はアルツハイマーで完全にボケてたが、法螺貝を鳴らして家臣が「殿、ご出陣ですぞ」と促すと往年の武将の姿になったという。

153 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/22 21:24
当時戦場の食事は湯漬け汁かけが普通だった。
ある時氏政が汁かけを取っていると、汁が足りなくなり汁だけお替りをした。
ところがまた汁が足りなくなりまたお替り。
あろうことかまた足りなくなり「お替り」。
脇で見ていた氏康は、はらはらと涙をこぼし
「毎日やっていることなのに飯の加減も分からんのか。こんな奴に関八州の仕置きが出来るか」
と嘆いたという。

>太源か、幻庵あたりだったかな
それは本阿弥。鑑定で有名な光悦の孫、光甫
本阿弥行状記だと
「一度にて汁かけ飯の加減さえできぬ性質にて、何とて八カ国の人々の善悪を目利きできようぞ」

158 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/26 01:54
武将じゃないけど家康の怖い娘たち。家康には養女が死ぬほどいたけど実の娘は3人だけ。

【亀姫】
奥平信昌室。宇都宮つり天井事件で本多を失脚させる。
【督姫】
北条氏直室、池田輝政室。
再嫁先の池田家の長男利隆を毒殺する。
【振姫】
蒲生秀行室、浅野長晟室。
秀行死後、家老の関と対立。失脚させる。
喧嘩両成敗で38歳にして浅野長晟に無理やり再婚させられる。

159 名前: やはりこれは外せまい 投稿日: 02/05/26 13:19
一、弥七郎に頻りにたびたび申し候らへども、虫気のよし申し候あいだ、了簡なく候。
全く我が偽りなく候
一、弥七郎とぎに寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。
いわんや昼夜とも弥七郎とかの儀なく候。なかんずく今夜は存じも寄らず候の事
一、別して知音申したきまゝ、色々走り廻り候えば、かえって御うたがい迷惑に候。
この条々いつはり候えば、当国一、二、三、大明神、富士、白山、殊に八幡大菩薩、
諏訪上下大明神の罰を蒙るべきものなり、よって件の如し

内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あいだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候
七月五日晴信<花押>
春日源助との

160 名前: やはりこれは外せまい 投稿日: 02/05/26 13:20
<訳>
一、弥七郎を口説いた事は何度もあるけどいつも腹痛と言って断られたんだよう
これホント。
一、これまで弥七郎と寝た事はないし、もちろん昼夜ともそんなことしてないし
まして今夜は思いもしないよ
一、おまえと仲直りしようと思って、色々するとかえって疑われるんで困ってる。

もし嘘ついたら<中略>針千本飲ーます
正式な紙に書けばいいんだけど役人がうるさそうなんで白紙に書いた。
明日にでも書きなおすつもり
七月五日晴信<認印>
春日源助様

161 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/05/26 17:41
やっぱ信玄って(以下略

162 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/03 13:39
奸臣久武親直
1588年、狂気の主君長宗我部元親とつるんで家督を盛親に継がすために元親の甥や従弟を讒言で殺害。
関ヶ原戦後、長宗我部家改易防ごうとして裏交渉していた盛親の兄津野親忠を殺害し、主家を滅ぼしたおそるべき破壊臣

163 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/04 13:09
黒田官兵衛が中津に入り、家康が再三の呼び出しにも応じず、やっと息子が家康に会いに行った時、家康は、両手で握手をしたらしい。
その話しを聞いた官兵衛は、息子にその時お前の左手は何をしてたんだ言ったらしい。

なぜ脇差で家康を刺さなかったのかと。

170 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 01:00
塙直之に面白いのがイパーイある

1.加藤嘉明のもとを離れる際、あてつけのように一句の詩を書院の大床に貼り付けていった。
逐不留江南野水高飛天地一閑鴎
(ここの水はワシには合わん。カモメは大空へ飛び立って行くんだよーん)

2.浪人中大龍和尚のもとで雲水をして「鉄牛」と名乗っていた。いつも大小を差していたという。
しかも時間に超ルーズ。供養の日に大遅刻をやらかし和尚に怒られると余裕全開で、
一鞭遅到勿肯怒君駕大龍我鉄牛
(ちょっと遅れたぐらいで怒るなよ。あなた「大龍」わたし「鉄牛」)と答えたという。

3.福島正則の所に遊びに行った際、厠に尻をなでる化け物が出るので夜はいけないという。
塙直之はかまわず用足しに行くと、便器の中から尻をなでる手が・・・
見上げると屋根の上には大きな目が・・・
直之おもむろに伸びた腕をつかみ大乱闘。脇差で仕留めるとそこには大猿があったという。

4.大阪冬の陣の際、宿陣に幅一尺長さ二尺の札に「塙団右衛門」とでかでかと張出し、
曰く、「旧主加藤嘉明が討ち取りたがってるそうなんで分かりやすいようにしてやってんだ」と笑い飛ばした。
おもしろがった連中が寄せ手の中からも多数訪れたという。

172 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 01:19
朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い義景を裏切り彼を討った。

東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。

177 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 07:47
織田信長

・浅井氏が朝倉氏と結んで、自分に叛旗を翻したとき「キエーッ」という異声と共に、饅頭を一口で飲み込んだ。
肥満気味だった浅井長政を、饅頭に見立てたらしい。

・口癖は「~~であるか」
~~の部分は他人には聞き取れない。
部下は「であるか」のイントネーション、表情で内容を察したといわれる。
得意だったのが秀吉、苦手だったのが光秀。

178 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 07:54
織田信長

・虫歯持ち。
その上、声がキンキンと響くほど甲高く、自分の声が歯に染みて痛む、怒り狂う、後歯痛という悪循環をくりかえした。部下にはたまらん主君だな。

・宣教師が黒人の奴隷を連れていたのを見て、その黒人を庭に引き出し、上半身を裸にさせ自らの手で背中を流した。
肌の色が白くならないのを、見て喜んだとされる。

179 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 07:59
織田信長

・ミルクに興味を持ち、牛乳を所望したが、あいにく、その頃の日本には乳牛がおらず山羊の乳を飲んだ。
口に出した感想は「~~であるか」結果として、彼の本心を知るものはいない…

181 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/05 19:44

結城秀康が出雲阿国の評判を聞きつけ、召しだした時の話。
阿国は襟元に水晶の飾りをつけ、当時流行最先端の傾奇踊りを披露した。
その見事さはその場にいた者皆息を呑むほどだったという。
踊りが終わると秀康は
「世に女は数千万いるとて、そなたのような者をただ一人の女と言うのであろう。
自分はただ一人の男とは言えん。そなたと比べれば自分のほうが劣っておる」
と言うと、その場で悔し涙をこぼしたという。

184 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/07 02:10
謙信が石坂検校(誰?)を呼んで平家琵琶を語らせた時の話。
物語が鵺(ぬえ)の段まで差し掛かると、なぜか謙信ははらはらと涙をこぼした。(話は泣く所ではない)
不思議に思った家臣が「何故の御落涙でござりましょう」と訊ねると謙信は
「八幡太郎義家公は弓弦を鳴らしただけで、たちまちのうちに妖魔を退散させた。その46年後、源三位頼政公は鵺を射落とし止めを刺して仕留めたであろう。頼政公から450年、我が国の武徳は言いようもなく末劣りしておる。わが身の武徳のいたらなさを思うと涙もこぼれよう・・・」と答えたという。

あんた一体何を倒したいんだ(w

185 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/07 04:41
礼儀作法なら三好長慶。
足利義輝の近習として、敵だった細川幽斎ですら絶賛。
さすがは武家作法の小笠原流の血を引くだけのことあり。

186 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/07 11:54
尼子経久
庭の木を誉めた客人にお礼として、その木をプレゼント。
太っ腹?迷惑?

1877 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/08 21:11
>>186
尼子経久は、客人に自分の持ち物を褒められると、喜んでその物を褒めた客人に与える奇癖があった。
だから、それが知れ渡ると、客人の誰もが、遠慮して経久の持ち物を褒める事はしなくなった。
で、その客人は、まさか庭木までは、褒めても自分にくれるとは言わないだろうと思って、庭木を褒めた訳だ。

188 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/07 16:35
ある時直江兼続は、失態を犯した家来をお手討ちにしてしまったが、それが全くの冤罪であることがわかり、遺族には相当の補償をした。
ところが遺族はおさまりきらず、「生き返らせろ、生き返らないうちは承知しねー」と騒ぎつづけ、自分の非を認めていた直江もこれにはついにキレた。
「ちょっと生き返らせて欲しい奴がいるんですが、詳しいことについてはこいつらが直接伺いますので話を聞いてやってください。宜しくお願いします。閻魔大王様」という手紙を書いて渡した後、遺族たちの首を全員切ってしまいました。

195 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/08 11:44
荒木村重

・村重の父は荒木信濃守義村といい、池田六人衆の随一であったが、中年にして子宝に恵まれなかった。
そこで、あるとき夫婦で摂津中山の観音へ参籠し、十二の灯をかかげ、二十八品の経を転読し、「哀れ願わくば、一人の男児を授け給い、其の子の成人後は天下に威名をふるう弓取りにして給え」と祈祷した。
これを続けていると、七日目の暁、十二の灯の光の中より、明るい珠が飛び降りてきて、義村の妻の懐中に入った。夫婦は大願成就と喜び、帰路につく。

やがて、妻は懐妊し、十五ヶ月後に普通より大きな赤ちゃんを出産する。夫婦はこの赤ちゃんに、十二の灯の影より出てきた珠の子だから、「十二郎」と名づける。この十二郎、育って弥介と号し、後の荒木摂津守村重を名乗る。

199 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/08 23:07
高橋紹運
息子を立花家へ養子に出す際、彼は一振りの脇差を息子に与え、
「もし父と立花家が争うときはこの脇差にて迷うことなく父を討てそしてそれができないときはこの脇差にて自分の命を絶て」
と言ったそうである。以後息子、つまり後の立花宗茂はこの脇差を肌身離さず持ち続けたという

204 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/09 01:25
信長、秀吉、家康と三人の天下人の手に渡った名器「松本茄子」と「九十九(付藻)茄子」。
しかし大阪城落城の際、これらは城とともに一度は失われている。
惜しんだ家康は焼け跡から探し出すことを命じ、その破片が丹念に拾い集められ、これを漆職人藤重藤元・藤巌父子に渡し、修復を命じた。

後日修復が終わり二人が家康に献上すると、そのあまりに見事な出来栄えに驚いた家康は、これを天下一の技と褒め称え「付藻茄子」を父藤元に、「松本茄子」を子藤巌に与えた。
現代技術でX線解析を行ったところ、その修復技術はやはり驚愕モノであることが判明した。

225 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 02:43
冷酷漢というイメージの強い最上義光。
彼には駒姫という美しい娘がいた。
その娘が11歳の時、よりによって後の殺生関白こと豊臣秀次に目をつけられ、義光に「ぜひ姫を侍妾に」と催促される。
いったん義光は断るが、それでもしつこく催促してくる時の権力者には適わず、ついに駒姫は京都の秀次の元に連れて行かれた。

しかし、その後秀次は例の謀反の疑いをかけられ切腹させられる。
その際、秀次の関係者も処刑される事になったが、その中には駒姫の姿もあった。
義光はかわいい娘の為にさんざん手を尽くし、秀吉にも家康にも助命を頼んだが、結局聞き入れられず駒姫は15歳の若さで処刑された…。
(義光の正室、大崎氏も心痛のあまり14日後に亡くなった。自殺とも言う)

義光は娘を弔うために専称寺を建立した。最上家一族の為でなく、娘1人の為に。
それは生前に娘が過ごしていた山形城の居間を移すという手の込みようで現在もなお面影を残すという。

226 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 16:07
>>255
なんとも辛い話だなぁ。。
あの最上義光だけにいっそう悲しく見える。
義光の中ではそれが一番の豊臣嫌いになった理由なのかもね。

他にもこういう合戦、戦略意外でのエピソードをキボンヌ

227 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 20:13
>>226
駒姫に関して悲しいのは、京都に到着したのが秀次の処分が既に決まりかけた当時。つまり秀次の手さえついてない状態だった。
そのため駒姫に対する同情論は強く、あの淀君でさえ秀吉に助命を嘆願しているのだが結局処刑…。情報の遅れが招いた悲劇。

229 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 18:11
では内ヶ島氏の話などを。

帰雲城を本拠地に、飛騨白川付近に勢力を持っていた内ヶ島一族は佐々成政と組んでいたので1585年、羽柴秀吉方の金森長近に攻め込まれてしまった。

もはや勝ち目なしと降伏した結果、なんとか所領は安堵。
とりあえず良かった良かったと、城で祝宴を開いたところ、その夜、大地震が発生して、帰雲城は山津波のため倒壊・埋没、内ヶ島一族は全滅して滅亡してしまった。


なお現在でも、帰雲城の正確な位置は不明らしい。

230 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 18:19
前田利家は自慢話が大好きだった。
特に、佐々成政に勝った末盛城の戦いと、信長と添い寝していたことは二大自慢話だった。諸大名は秀吉の友人の前田利家の機嫌を損ねてはといつも同じ話をする利家に相槌ちをうったり愛想笑いするのに大変だった。

233 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 20:26
伊達政宗は大のお茶好きであった。そのおかげで仙台には茶菓子の店が多いといわれるが、政宗の無茶なところはなんと寒い仙台領内で茶の生産を命じたことであった。さまざまな検討の結果、北上川流域桃生町で茶は栽培されることになった。
ちなみに現在でもこの地は茶栽培の北限とされている。

238 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/10 21:54
関が原で負けた三成をみんなが、悪者にしたが、唯一、水戸光圀だけが、三成をかばった

244 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/11 00:47
>238
幸村もかばっている。

「真田左衛門佐は常に東照公に敵対して身に村正の刀を離さず、これ村正は徳川家に不祥なるものと云はるるを以ってなり。
また石田治部少輔は憎からざる者なり。人各々其仕ふる処の為にす。苟(いやしく)も義によって事を行ふ者は敵と雖(いえど)も憎むべきに非ず」

水戸光圀「西山遺事」より

246 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/11 00:39
江戸時代、上杉家では幕府をはばかって、景勝と直江のことを顕彰することを控えていた。
藩主の祖先である景勝はともかく、子孫が絶えた直江はほとんど無視されていたが、ただ一人公式に菩提を弔ったのが、名君上杉治憲(鷹山)である。

266 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/11 20:23
石田三成が関ヶ原の戦いで下痢だったのは有名だが、敗走中に見つかる手がかりとなったのは、追跡していた東軍が野グソを見つけたから。
その野グソのそばには、上質な美濃紙が捨ててあった。

267 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/11 20:28
真田幸村は、農民にいくさを教えるときにこう教えた。

いくさとは夜這いのようなもの。
そーっと近づき一突きしたら一目散に逃げるのだ。

279 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/15 23:17
池田輝政が死んだあとに殉死しようとした家臣がいた。
他の家臣が止めようとしたがきかないので輝政の嫡子の利隆にとめてくれるように頼んだ。利隆はその家臣の前まで来ると、「父には忠誠を尽くすのに自分に尽くす気がないならとめないので勝手に死ねばいい」と言ったので誰も殉死しなかった。

297 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/06/27 22:55
ワイルドかつ野蛮な印象の強い伊達政宗は、千利休に師事し、茶の湯を心得ていた。
ある日手にした名物の茶碗を落としそうになったとき、心臓が止まりそうになりさすがにビビッタ政宗。
彼はその狼狽した自分を恥かしく思い、茶碗ごときになにを、とばかりに、その名物茶器を打ち砕いてしまった。
米一石が約一貫とされていた当時、その茶碗は千貫もした超高級品だった。

301 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/01 18:48
戸村義國

大坂冬の陣の時、横手城代戸村家の祖戸村十太夫義国は、先方の大将後藤又兵衛基次が槍の穂先に餅をつけてエイットばかりに差し出すと義国はどっかと座してこれを食した。
大将はじめ居並ぶ強者共もその度胸の良さにあっぱれあっぱれと賞めたたえたという。
以来これを祝ってあっぱれ餅として売り出されたと伝えられている。

大阪方の武将真田幸村と戸村十太夫との一騎打ちは、侍大将の一騎討ちの最後の物語ともなっていて、両大将の死闘は今の時間で一時間半にもおよんだと伝えられている。
その時に戸村十太夫の使った太刀は「国宗」と言われ、現在中仙町の文化財として現存している。
刀の棟には真田幸村が切りつけた時についたと言われる傷が残っている。
戸村十太夫は、この戦いで武名を天下にとどろかし、その功績により将軍徳川秀忠より感状と「青江次直」の刀を拝領した。
大名ならいざ知らず、一介の侍大将にとっては破格の待遇といえる。

上は横手のあっぱれだんごの由来。
下は「国宗」の由来。いっしょに古文書も残ってるみたい。

302 名前: 武田珍玄 投稿日: 02/07/01 19:13
徳川家康は家臣をある部屋に招いて、こう質問したそうだ。
「この部屋にある碁石の数はいくらに見える。」
すると、家臣は「黒が400白が600あるとお見受けいたします。」
これに対して家康は、「お主は、少し多めに見てしまうようだが、それでは、遠くから敵軍を見たとき本当の数よりも大軍にみてしまうであろうな。」と言ったらしい。
家康が家臣の視力を確かめるときの方法にまつわる逸話でした。

322 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/07/22 20:05
関ヶ原の戦いにて秀忠が上田城で真田昌幸に阻まれた時のこと、秀忠は上田城の向こう側にいる先陣の武将に伝えたいことがあって伝令を送ることにした。

その伝令の任に当たったのが島田兵四郎という者。
島田は回り道をするのは時間がかかりすぎると思ったのか、まっすぐそのまま上田城の方へ向かった。
上田城の門の前まで辿り着くと、大声で城の番兵に「拙者は江戸中納言の家来島田兵四郎と申すもの。わが先鋒まで連絡に走る身、申し訳ないが先を急ぐので城中をお通しくだされ!」と呼びかけた。

番兵はさすがに驚いて城主・昌幸に報告した。昌幸も当然驚いた。が、兵四郎の肝っ玉の大きさに感心し、ここで通さなければこちらの料簡の狭さになると言って、門を開くように指示した。
兵四郎は礼を言うと、帰りにももう一度通してくれるように頼むとそのまま消えていった。
帰りにもちゃっかり通してもらいに来た兵四郎の前に昌幸が現れ、兵四郎に上田城の城内の様子を詳しく見せて回った。そして「真の守りは城主の心の中にある。だからいくら城の中を見られてもこちらはなんとも思わぬのだ。」礼を言った兵四郎はやはり堂々と正門から味方の陣へと帰っていった。

333 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/08/20 02:01
仁科盛信

領内で慈悲深い統治を行い、農民たちにこう歌われたという。
武田の殿様欲深くおいらの刈り入れ空になる
仁科の殿様慈悲深くおいらの刈り入れ山になる

334 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/08/20 02:09
細川幽斎

名歌人として知られる幽斎だが、ある日位の高い公家達の歌会に呼ばれた。
緊張で足元もおぼつかない幽斎はなんとそこで転んでしまう。
意地の悪い公家が「幽斎殿、そこで一首!」とからかったところ、幽斎は、とんと床に手を付いた私ですが、こんな時に歌を詠めと言われても如何しようという意味の歌を見事に読んで居並ぶ公家たちを感嘆させたという。

335 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/08/20 10:43
伊達政宗と直江兼続

大名連中集いて遊戯をしていた。
賞品として各々逸品を提供すれども、政宗、なんの変哲もない『ひょうたん』を出品。
各大名、しょせん田舎者よと政宗を鼻で笑う。
兼続が賞品を獲得するに至って、政宗出品の『ひょうたん』を選ぶ。
兼続も物好きよとまたも各々嘲笑す。
後に政宗側に寄って曰く、兼続殿待たれよと。
お主にはわしの愛馬をくれてやる。ひょうたんから駒というではないか。と。

337 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/08/20 11:49
吉川経家

秀吉による鳥取城攻撃が行われていた頃、城主の山名豊国は一旦抵抗するものの支城が落とされ、娘が人質となると降伏した。
しかし、娘と家臣とどっちが大切なんだと家臣に詰め寄られると、豊国はなんと単身で逃げ出した。
家臣達はたまらず毛利に新しい城主を差し向けてもらうように懇願した。
そして来たのが吉川経家だった。
しかし秀吉の兵糧攻めに城内は阿鼻叫喚の地獄絵図。
そこで経家は自分の命と引き換えに、家臣の命を救ってくれと秀吉に頼んだ。
ほぼよそ者である経家が腹を切る必要は無かったのだが、彼は「私は主家に信任されて来た人間である。だから責任は私一人ですべて取る」と言い見事に切腹して果てた。

339 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 02/08/20 13:57
柴田勝家

家臣にいつも、めそめそしていて泣いているのではないかと思える人がいました。
他の家臣が勝家公に「あのような奴がいたら家臣団の志気が落ちます、暇をとらせては…」と言ったところ、勝家は「葬式の使者には、もってこいではないか」と言って相手にしなかったそうです。
大名たるもの多種多様な人材が必要とのことでしょうこれだけでも勝家が武門一辺倒の人物ではなかったことがうかがえます。



個人的な追加逸話。

朝倉 孝景
多くの公家から憎まれていた朝倉孝景。
彼の死後、それを聞いた公家により、「越前の朝倉孝景が死んだということだ。朝倉孝景は「天下一の極悪人」である。あのような男が死んだことは「近年まれに見る慶事」である」と書かれたほどである。

朝倉 宗滴
臨終をむかえた際、当時無名であった尾張の織田信長の台頭を予言したと伝わる。 『朝倉宗滴話記』に 「今すぐ死んでも言い残すことは無い。ただあと3年は生きていたい。 遣り残したことや命が惜しくて言っているのではない。 織田上総介の行末をもう少しだけ見てみたいのだ。」(意訳) と記されている。

朝倉 義景
武略には見るべきものがなかった義景も、連歌、絵画、能、猿楽、茶、犬追物などを好み、それぞれの芸道に秀でていた、と古記録は伝える。
大外記清原宣賢、四辻季遠、飛鳥井雅教などの文化人が一乗谷を訪れている。また、心月寺の和尚が帆掛船を描いた扇子を義景に見せつつ、「この船はどこへ着くや」と問いかけたところ、義景は扇子をとって裏返し、「この裏(浦)に着く」と答えた話などが伝わっている。

なめこマッハは故郷・越前の大名朝倉家びいきだお(^∞^)
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From:  * 2015/10/17 02:12 *  * [Edit] *  top↑
ワロタ
From: 名無し * 2008/12/27 13:45 * URL * [Edit] *  top↑
>>43

>1979年、細川忠興と明智光秀の娘(後のガラシア)婚姻。


俺の生まれた翌年かよ
From: 名無し * 2007/03/28 12:02 * URL * [Edit] *  top↑
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